2014年9月16日火曜日

見沼たんぼと鳥見役会田家

見沼たんぼの芝川には、しらさぎ、かももいます
埼玉の川口から大宮に広がる見沼たんぼは、関東最大級の緑地帯です。米や野菜、果樹、そして雑木林、川で構成されるこの地域周辺は、紀州徳川家の御鷹場でした。この鷹場を取り仕切っていたのが、足立群大門宿の名主であった会田家です。そして日光街道大門宿の本陣を張り、鷹狩を取り仕切る「鳥見役」でした。会田家に残る鷹狩に関する古文書は2000を数えます。

古文書の一部には、御鷹場御用急回状(魚猟用達)、紀州御鷹場御用(御用うなぎ)とあり、献上用の魚や鳥を調達していたことが記してあります。納入者は、御鷹場内魚類買入御用相勤二付一礼とあり、川魚御用清三郎、善兵御新田伝右衛門から川魚を購入していたことがわかります。
そして記録の多くを占めているのが御鷹場御用急回状として、急きょ人足として農民が調達されたことも残されており、多くの農民が鷹狩に駆り出され、迷惑をしていたかと思わせるような記述もありますが、将軍吉宗は、農繁期を避けて鷹狩を行ったという記述も他文献にあります。

鳥見役はこのように鷹狩のための宿、食事、鷹場の準備、獲物となるキジやシカなど、密猟から守るために獲物を調べ、鷹場を移動するなど完璧な準備をしていました。ですから食事から鷹場の警備、勢子(せこ)と呼ばれる獲物を追いこむ役目の農民や武士を調達する役目などなど、鷹狩に関する一切の現場仕切りをしておりました。
見沼たんぼで見つけたブルーのきれいな小鳥


また、徳川家康の時代は、鷹狩には1週間2週間と農地を借り上げ、地代を払っていたといいますから、農閑期、農民を養うという一面もあったのでしょう。

会田家とは別に、日光御成街道の鳩ケ谷宿本院に船戸家があり、鷹狩に関する文献も残されています。埼玉には日本で一番鷹狩の文献が残されていると言われています。
鷹狩文化の研究は始まったばかりです。