2014年6月26日木曜日

井沢弥惣兵衛為永(いざわやそべえためなが)

埼玉の人で知らない人はいない郷土の偉人、沢弥惣兵衛為永(いざわやそべえためなが)。見沼たんぼの新田開発や代用水を開削した人として知られる。さいたま市立病院入口にある「さいたま市立博物館」では、井沢弥惣兵衛為永の業績を紹介している。
見沼自然公園に立つ井沢弥惣兵衛為永
江戸時代中期(?~1738年)。治水家。
元禄3年(1690年)に紀州藩主徳川光貞に登用され、以後、綱教、頼職、吉宗、宗直の5代の藩主に仕え、土木事業を行いました。
吉宗が将軍職に就いた際に、その才能をかわれて江戸に呼ばれ、財政再建のために見沼新田・見沼代用水 開削かいさくを含む様々な干拓・灌漑かんがい事業を次々と行い、新田開発に貢献しました。
井沢弥惣兵衛いざわやそべえの見沼開発は伊奈氏の方法(関東流)とは異なり、既存の沼を廃して新たに用水路を開削かいさくし、用水と排水を分離するものでした。この方法は、一般的に「紀州流」と称されています。



常福寺にある井沢の墓


享保13年(1728)2月、見沼代用水路が完成。
同年3月、元入りが開けられ用水が流れた。
翌年には各村へ田の割当が完了する。
現代に語り継がれる見沼田んぼの誕生だ。
用水路の全長は5万間(約90km)。
延労働力は90万人。
工作物を含めた工事費は2万両。
新田1,175町歩が増加し、年々4,960石余が年貢米として納入された。
そして、享保16年の見沼通船堀の構築は、運河としての機能をも加える事業となった。
井沢為永の偉業は、武蔵国の湖沼干拓と幕府財政の立直しだけでなく、灌漑・治水、そして利根川上流及び武蔵国穀倉地帯の産物を、代用水路・芝川等を活用し蔵前まで運ぶという大プロジェクトであった。
見沼自然公園に立つ為永像の視線の先には、21世紀に託された見沼の保全と治水事業の姿が見える。

                                    (さいたま市ホームページより転載)

鷹狩を復興させた徳川吉宗


徳川家康と並んで鷹好きだったのが8代将軍徳川吉宗。幕府の財政再建の為、新田開発や倹約、また法令の整備などの「享保の改革」を行った。

吉宗は、米将軍、鷹将軍と呼ばれ、紀伊藩から幕臣となったもののなかには鷹匠同心3人、鳥見2人がいる。家綱が亡くなり、1周忌が過ぎたあたり(享保5年)から鷹狩を始めたとされ、1月4日を鷹狩始めとし、亀戸、葛西、小松川、駒場野、隅田川川辺、品川、王子で行った。5月、9月、10月には行っていないことからすると、農繁期には鷹狩を行わなかったことが伺える。また、農家には農地を借り上げ代を支払っていたので、農家にとって鷹狩は農閑期の収入源でもあった。

享保11年には大掛かりな鷹狩が行われ、幕臣は2772人、勢子は、関東一円から農民数万人が集められた。捕った獲物は、イノシシ12頭、狼1頭、 鹿470頭であった。
鷹狩については、「鷹野、鹿狩をなすも、一身の楽と思ふ者もあるべきとなれどさにあらず、治世に武を講ずべきたよりと、下の利病をしる」(有徳院殿御実紀付録)とあり、軍事訓練と民情視察に役だっていると言っているが、民衆は民衆で鷹狩に駆り出され難儀したとされる。

2014年6月25日水曜日

見沼たんぼ

関東最大級といわれる緑地帯で、川口から大宮までの1260haの広さを誇り、田園風景と共に動物が、すぐ目の前をゆく姿も見られる自然空間です。
東京から20から30キロという距離になり、四季を通じて多くの人が自然を楽しみにきています。  見沼たんぼは、紀州藩の御鷹場でした。家康も鷹狩で何度も訪れており、そんな時代を感じながらたんぼを歩くのもいいものです。



さいたま市のサイト「見沼たんぼのホームページ」に詳細があります。
http://www.minumatanbo-saitama.jp/outline.htm