埼玉県の鷹狩文化

鳥見役 会田家(武蔵国足立郡大門宿本陣)


会田家は江戸時代に大門村で代々名主を勤めるとともに、日光御成道大門宿の本陣、問屋を兼帯し、さらに紀州鷹場の鳥見役を勤めています。ここでは、会田家が残した鷹狩に関する史料を埼玉県立浦和図書館が目録として作成したものや、埼玉の鷹狩文化を紹介していきます。







紀州鷹場
徳川家康は鷹狩を好み、関東入国後しばしばこの地域を鷹場として使用している。このため、寛永以前には浦和の谷場村に公儀鳥見役である太平角助、都築善九郎、丸山三之丞の下屋敷があり、地域一帯を支配していた。
 寛永3年紀州家の鷹場となった際に会田平左衛門、八木橋七兵衛の両名が鳥見となり、慶安以降元禄期までに、星野権兵衛、松本孫右衛門の両名が加えられている。元禄年間徳川綱吉が生類憐みの政策を実施すると、この影響により元禄6年紀州鷹場は廃止されたが、当時の鷹場区域は足立郡の13領(指扇、大宮、木崎、南部、平方、植田谷、小室、赤山、岩槻、与野、桶川、浦和、大宮)にわたっていた。

その後、8代将軍徳川吉宗の就任により、享保2年に鷹場制度が復活され、52村、村高15,868石3升4合が紀州鷹場とされている。享保10年の御鷹場惣村石高帳によると、鷹場内は8名の鳥見役が村数210村、村高58,163石9斗2升4合の地域を支配し、その区域は、現在の荒川以東、北は上尾から東は越谷の西南部一帯におよぶ広大なものであった。このうち、鷹場の南部地域は将軍の鷹場に接し、捉飼御用のため幕府鳥見役が巡田、或いは三卿のひとつである清水家の借揚場とも入り組んだため、二重の負担が生じ、しばしば窮状を訴えている。

                          <会田家・相沢家文書目録 (1971年) (近世資料所在調査報告〈6〉)より転載>


つづく

0 件のコメント:

コメントを投稿